[ . BACK to TOP . ]
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宗教や神話の影響を受けた食文化
QUOTE
© yakatada/kataribe.html
yakata@city.nerima.tokyo.jp
『宗教や神話の影響を受けた食文化』
一国の文化は、その国の宗教や建国の神話、風俗や習慣によって支えられ、その国の歴史は、外国の文化との接触や為政者によって歪められた民族の変遷の奇跡であるということができるでしょう。特に食文化は、その影響を受けやすく、その国の食文化を知るには、宗教や神話、伝説、風俗、習慣などを知る必要があると思います。
たとえば中国の食文化は、その宗教である道教の影響を受けて、不老長寿を目的に作られてきました。漢方薬というのは、不老長寿のための食材として開発されたものです。中国には昔から医食同源という言葉があるように、食べ物から健康で理想的な身体を作ることを考えたのです。
食べ物は薬で、医と食の根元はまったく同一のものだという考え方が、医食同源の意味です。
一方、欧米には、ギリシャ神話やキリスト教、ユダヤ教など、いろいろな宗教の影響を受けた文化があります。聖書やコーランなども、それぞれに民族の文化に大きな影響を持っています。
このような神話や宗教的な物語は、科学的な知識が豊富になり、特に情報通信手段の発達した現在では、明らかに迷信であったりして、人類の文化にプラスになることのないように思われるかもしれません。けれども、社会全体がこうしたものを根拠にして構成されていますので、これから抜け出すことはできません。
『口承されてきた料理の知識』
太古の昔から、日本には日本の神話があり、神道と仏教という二つの宗教があります。現在ではたくさんの宗教がありますが、主要な日本の宗教はこの二つといっていいでしょう。これらの宗教は、日本民族の文化に大きな影響を与えました。
特に神道はわが国古来の宗教です。そのために、日本の料理には、神道の思想から出た多くの約束事やしきたりがあり、それらは、無意識のうちに私たちの生活の中に入っていて言われてみればなるほどそうなのか、と思うことがたくさんあります。
また、仏教も中国を経て日本に伝来しましたが、これもまた食文化に大きな影響を与えています。
修行僧の食である精進料理は、日本料理にいろいろな技術や習慣などを教えてきました。
日本料理を作るときも、食べるときも、こうした知識がないと、単なる喰い物を作り、食べることになります。日本料理の職人は、こうした知識を親方から、仕事をしながら教えられてきたのです。特に明治以前は、読み書きのできない人が沢山いましたので、実技を通して口伝えに、「口伝(くでん)」という形で伝えてきました。
『サケは神様の食事』
日本に稲作が伝わり、稲が栽培されるようになると、稲の神様を祭るようになります。この稲の神様を「サ」といいます。その当時は字がありませんでしたので、音だけが伝えられました。稲の神様の神域に植えられた垣根をサカキといい、玉串に使う榊は、この神様の垣根を表しています。
また食事のことは「ケ」といい、神様の食事は、御食と書いて「ミケ」と読みます。私たちの食事も「ケ」といいます。朝食はアサケ、昼食はヒルケ、夕食はユウケといいましたが、現在はアサゲ、ヒルゲ、ユウゲと濁って発音しています。
サは稲の神様、ケは食事のことですから、サケは稲の神様の食事ということになります。後に文字が伝来し、笥(ケ)と書くようになります。そしてケというのは「毛(有用な植物のこと)」を表します。不毛の地とは、有用な作物のとれない荒れ地を指します。
神様はサケを主食として、人間はゴハンを食べることになりました。大昔の日本の国を、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)というのは、米がいっぱいできて豊かな国だということを表しています。それで、神様のいるところでは必ずお酒が出ます。結婚式の三三九度の盃や、葬式や火事場でも酒が振る舞われるのはそのためです。
『記紀の話』
日本の神話はいろいろな形で語られてきましたが、主要な原点は、「古事記」と「日本書紀」です。
古事記はわが国最古の歴史書で、元明天皇の和銅五年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)の述べた口伝えの歴史を記録したものです。この中には、神代から推古天皇(554~628)までを記録してあります。推古天皇は、聖徳太子を皇太子に立てて、官位の制定や十七条の憲法の発布、国史の編纂など大きな治績をあげました。
在位36年(592~628)で、推古というのは古代の事跡をおしきわめ考えるという意味です。稗田阿礼は語部の舎人で、非常に記憶力の優れた人で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の子孫であるといわれています。日本書紀は奈良時代にできたわが国最古の官撰正史で、神代から持統天皇の十一年八月までの事績を漢文で記録したもので、養老四年(720)舎人親王や大安万侶によって作られた編年体の史書です。
古事記と日本書紀を合わせて「記紀}といいますが、料理の歴史を調べる場合にも、こうした古い時代の物語や伝説、神話、風土記、祝詞、宣命などが重要な記録となります。
『神様の食事を作る神様』
「記紀」に出てくる神様の名まえを見るとどんな神様なのかがわかります。推古天皇は、別名、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめのみこと)といい、神様の食事を作る家柄の人だとわかります。
伊勢神宮は、内宮と外宮がありますが、内宮には天照皇大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りしてあり、外宮には豊受大神(とようけおおかみ)をお祀りしてあります。この神様は、御饌津神(みけつかみ)といって、天照皇大神の食事を作る神様、つまり料理人です。
こうした神話や伝説などを基にして、様々な料理が生まれ、しきたりが生まれてきました。冠婚葬祭にまつわる料理には、不思議で神秘的な料理があり、中世から近世にかけて、さらには現代に至るまでも大きな影響を与えてきました。特に江戸時代になると、儒教の影響を大きく受けることになります。式正料理などという、食べない料理を作るようになり、儀式用の見るだけの料理もできてきました。
こうして荒唐無稽な物語や伝説は、不思議なしきたりを生み、世界に類を見ない奇妙な料理がたくさん作られたのです。今でも神社やお寺では、昔のしきたりに合わせて作っているところがたくさんあり、昔ながらの神饌(しんせん)や仏供(ぶっく)を作っていることは、日本の食文化を知る上で、非常に重要なものです。
『美味しいものを探して食べる』
日本の食文化は、中国や朝鮮半島の影響を受けてきましたが、一方では独自の食文化が生まれました。
それは主食と副食という概念と、簡浄を尊ぶという国民性のために、簡素で清浄なものを食べるのが日本人の基礎になっていることです。周りを海に囲まれた島国日本では、豊かな海や山の幸があり、農耕を主体に生活をしたので里の幸もたくさんあり、新鮮な素材に恵まれていたことが想像できます。非常に幸せなことですが、料理はそういうところでは発達しません。余分な加工をせず、素材そのものの味を賞味する習慣は、素材の持ち味をを楽しむことになり、料理して食べるという習慣が生まれなくなるからです。
日本では、京都が料理の最も発達したところといわれています。盆地のため海の幸がまったくありません。そのため、乾物などを戻したり、塩蔵品を塩出しして調理する技術が必要になってくるのです。「いもぼう」や「にしんそば」などの発想は、鮮魚に恵まれた土地では考えられません。「ばってら」や「きずし」などは、京都ならではのものです。これは海外でも同じです。
主要な都市の料理を思い浮かべてみて下さい。幸か不幸かはわかりませんが、炒飯より銀シャリ、麻婆豆腐よりも,湯豆腐や冷や奴の旨さを知る日本人の味覚は、日本料理の基本になるものです。四季の変化を料理に感じ、一つの素材を「走り」、「旬」、「名残り」と,三回も味わう幸せは諸外国にはありません。自然の恵みを味わう大きな知恵は、環境が破壊されると、味わう楽しみも少なくなります。このような特徴を知った上で料理を食べると、日本のすばらしさを本当に知ることができます。
『食べない料理』
料理は食べるために作りますが、日本には食べない料理があります。これは、日本の食文化でも特に興味ある特徴ですが、なぜこんなものを作るのか、理解に苦しむところでしょう。
いちばん尊い方に作る料理といえば、日本では神様に差し上げる神饌です。神饌は二種類あり、一つは、餅や果物、野菜、海草などの加熱処理しないもので「生饌」といいます。
もう一つは、食べられるように調理した料理で「熟饌」といいます。神様は主食がお酒ですから、御神酒とこの神饌と塩と酢を供えます。
昔は酢に梅酢を使いましたので「塩梅(あんばい)」といい、調味料の基本です。仏教では、全部が精進物で、仏供霊供(ぶつくれいぐ)といい、生饌熟饌を供えます。こうしたしきたりは、私たちが伺い知ることのできないもので、実際に召し上がる物ではありませんが、有り難い物とされています。
このような習慣から、立派な料理は食べない料理である、という奇妙なことが起こってしまいました。
そして最も尊い料理として、儀式用の式正料理が生まれました。最高のおもてなしをしようとするときには、まず、神饌と同じようなものをお出しします。客は感謝の限りを尽くして、こんな立派な料理は頂けません、と辞退し、次ぎに実際に食べる饗膳が出てきます。
大体このような式正料理は、冠婚葬祭に用いられましたが、なぜ大変複雑でばかばかしいことをしたのか理解に苦しみます。今日残されている式正料理の献立の多くは、大名家の料理人が書き残したもので、一つ一つに理由や由来があるようです。
ちょうどおせち料理の縁起のように、婚礼や出陣、凱旋の時など折にふれて作られ、ついには専門の家柄までできました。
婚礼の例の一部を示します。
献立の最初は「引渡し」「つぼみ」といい、祝言の盃事をします。これを一献目(または初献ともいいます)、二献目は「打身」で盃事、三献目は「腸煎(わたいり)」で盃事、以上一献ごとに三杯ずつ酒を飲み、ここまでが儀式です。そしてこの儀式が三三九度の起源になっています。
『おせち料理の縁起』
新年をことほぐということは、年中行事の中でも農耕儀礼の一環として、最も大切な民俗行事とされてきました。しかもおせち料理や餅雑煮などの儀式料理が、これにともなうことは、諸外国にもその例をみません。正月をただ暦数の更新にすぎないと割り切ってしまう国もあれば、わが国のように
「かくて明けゆく空の気色 昨日に変わりたりと見えねど ひきかえてめずらしき心地ぞする」
と、兼好法師の感懐ではありませんが、敬虔な心で、正月を祝福する民族もあります。
『おせちは「せちく」の意』
昔から、普段のことを「け(褻)」といい、はれがましい表向きのことを「はれ(晴)」として、ことに衣服や食生活では、ハレの日とケの日で画然とした区別がありました。衣服ではまず「ハレ着」をととのえ、食生活では「ハレの料理」が作られてきました。ハレの日はすなわち、こと(事)の日であり、もの日(物日)とも呼ばれ、それぞれの持つ日の意義に合わせて、長い習慣から、一つの形式化した料理が生まれてきたのです。
このように行事には必ずといっていいほど食べ物がついてまわり、行事と食べ物は一体とみられ、そこに行事食とか、行事料理ということばが使われるようになりました。そして、その行事にふさわしい料理を食べることによって、行事の意義を見出したり、生きることの満足感を体得することが、恒例化するようになりました。
古来からの行事食としては、中国から伝来した五節供の行事があり、はじめ(奈良朝の頃といわれる)朝廷の節会として行われ、その日に供される供御(くご)を節供(せちく)と呼び、行事と料理の結びつきは「せちく」という呼称により、その一体感を深め、行事食の性格というものが打ち出されるようになりました。
五節供とは、
旧暦正月七日の人日(じんじつ)、
三月三日の上巳(じょうし)、
五月五日の端午(たんご)、
七月七日の七夕(しちせき)、
九月九日の重陽(ちょうよう)をいい、
やがて江戸時代には民間の行事としても広まりました。
その後明治六年の太政官布告により、朝廷における五節供の行事は、まったく廃され、新暦の採用により、これらの諸行事も一時は混乱をきたしたりして、それなりの消長がありましたが、近年は民間行事として、再び見直されてきたようです。
おせちは「お節」で、五節供の節供料理すべてをいいましたが、いまではご馳走の多い、年始料理だけを呼ぶようになりました。ちなみに、節句の文字は「節供」の慣用語だそうです。
『おせちは蓬莱飾りにみる神饌』
土地によっては歳神(としがみ)の依代(よりしろ)といわれる松飾りすら廃するというご時世に、屋内飾りに至っては、いよいよ影が薄くなりつつあります。しかし屋内飾りの風習は、おせち料理の起源とも考えられますので、これをあらためて見直してみることにしましょう。
屋内飾りとしては「蓬莱飾り」が代表的なもので、三方の上に米や餅を主体として、諸種の縁起食を飾りますが、料理屋や旅館などでは酒樽の上にこれらを飾る風習があり、樽飾りともいいます。また蓬莱飾りを略して供え餅に僅かな飾り物をする家庭もありまちまちです。
飾りに使う材料は、コンブ、ホンダワラ、ダイダイ、キンカン、串柿、搗栗(かちぐり)、伊勢エビ、タイ、打鮑、干しカズノコ、ゴマメ、黒豆、梅干し、大根などの食品の他、ウラジロ、ユズリハ、ヤブコウジ、根引き松などです。
コンブとホンダワラは海草で、昆布は喜ぶ、ホンダワラは穂俵で神馬相のこと。ホンダワラには豆粒大の気泡を持った袋がたくさんついていて、それが穂俵として賀祝の縁起に用いられるのです。料理としては、懐石の小吸い物や雑煮の点景に用いられます。
ダイダイは橙とも書きますが、その果実は酸味が強く、翌年の夏、新果が実るまで老いて樹上にとどまるので、親子代々の健勝をめでたいとしたものです。したがって、糖分があって落ちるのが早い蜜柑や柚子で代用するのは、意味のないことになります。
キンカンは金柑(金冠)の名が財宝と名誉を意味し、 干し柿は唯一の甘味料、砂糖の入手が困難な時代には甘菓子の代表であったところからです。関西では、竹串に十個の干し柿を刺し連ね、両端に二個ずつ寄せて、中六個とします。「夫婦(二二)仲睦(六)まじい」とは、さすが「ことだまのさきはうくに」だけによくぞ洒落たものです。
搗栗は勝栗で、以前はこの固い干し栗を戻して栗キントンにしました。
伊勢エビは、日本の祖神伊勢神宮の神威にあやかるものでしょう。茹であげて赤い姿も美しく、二本の長いひげも立派です。また、腰の曲がるところは延寿のシンボルとされています。
鯛は海魚の王として、神饌や祝膳には必ず供される祝い肴です。めでたいの音にも通じ、関西では三が日のにらみ肴にしたり、生の小鯛にイワシを銜えさせた茶家の蓬莱飾りなどもあります。
打鮑はアワビをかつらにむき、蒸して打ち伸ばした熨斗鮑です。今ではもっぱら神事や儀式用の肴として用いられます。最近は、本物の鮑から造る打鮑は短冊形のものを新藁の細縄につるした伊勢神宮に神饌に拝する以外はあまり耳にしません。打鮑の熨斗包みが転じて、後世に贈答用の飾り熨斗になって、形式的な蓬莱飾りや結納に用いられるのは面白くもあります。
干しカズノコは、ニシン大漁の時代にたくさん出回ったものです。米のとぎ汁に浸してもどす手間はありますが、それが年の暮れを思わせる家庭の役仕事でもありました。現代の塩カズノコのような高値でもなく、貧しい庶民の口にも、正月の味を運んでくれました。ニシンはアイヌ語でカド、カドの子が訛ってカズノコになったともいいます。小さな卵粒が無数に寄り集まっていますので数の子の字が当てられるようになり、農耕時代には子沢山を尊び、子孫繁栄の縁起としました。
ゴマメはカタクチイワシの幼魚を生のまま干したもので、五万米の字を用いて五穀豊穣の縁起とします。地方により田作りともいい、昔、イワシは干鰯(ほしか)として作物の魚肥に使われていたことによります。煮干しはイワシを茹でて干したものですが、ゴマメのように生魚を干す作業は寒い季節に限られてしまい、師走の西風が吹く頃でないと出回りませんでした。
梅干しは、主に関西の蓬莱飾りに用いられます。健康と長寿と、登竜門の縁起まで含まれるというのは、天神様の御利益に習ってのことでしょう。黒豆は肌の黒さとまめまめしさを篤農の男子に見立て、料理の方では「田夫」の名があります。関西で祝い肴に用いられるゴボウも同じ意味で、田夫なのです。
大根は年末に出回る小さな品種を用い、鏡餅の上にのせます。それ故に、古くからカガミグサの別名があります。
以上のように、蓬莱飾りというものは、歳神に供える神饌です。ただし、それぞれの縁起を大切にした食品です。ほとんどが乾物で、そのままでは直会(なおらい)の食にはなりません。いいかえれば、神に供えた食品のおさがりが乾物では、そのまま食べるわけにはいきません。おせち料理は、これらの材料を料理して、熟饌に作り、神に供え、これを直会(なおらい)の食にしたものとも考えられます。
『喰積と三つ肴』
正月の祝い肴を今ではおせちと呼ぶのが普通ですが、一時代前までは「喰積(くいつみ)」と呼ばれていました。伊万里焼の組重が多く使われ、磁器の冷たさが、料理の保存に役立ったのかもしれません。喰積の主役は、祝い肴の中でも特に「三つ肴」ともいい、江戸では、カズノコ、黒豆、ゴマメの三種をいいます。
以上三種の祝い肴があれば、お正月様は立派に迎えられるという考え方が、江戸時代の農民社会を支配していました。
三つ肴の縁起は前にも述べました。これをもう一歩つっこんで詮索すると、百姓は子どもをたくさんもうけて、農作業に精を出し、大いに年貢米を供出せよという、徳川幕府における農政のスローガンであったとも受けとれます。
喰積には、おせちの組重に見られるような長崎渡りの「口取り」風の祝い肴は、贅沢すぎて用いられなかったようです。せいぜい昆布巻か里芋やコンニャクの煮染ぐらいが庶民層の祝い肴だったようです。
喰積にさびしき夫婦箸とりぬ たかし
喰積の少し乾(から)びてわびしけれ 一荘
俳句の歳時記から拾ってみても、喰積というものには正月料理としての華やかさや贅沢さは感じられません。ところが、おせちというと、いかにも新年らしい、賀客のためのもてなし料理という気分になります。
『「口取り」と「口代り」』
「口取り」という用語は、「口取菓子」、「口取肴」などというように、菓子にも料理にも使われます。口取りは菓子にせよ肴にせよ、これは祝儀の膳につける引出物でした。今でも本膳様式で行う婚礼の膳には折詰めの口取りが付きます。鯛の焼き物に、蒲鉾、金団、伊達巻き、寄せ物などがぎっしりと詰められていて、これには箸をつけず、土産として持ち帰る習慣があります。
饗宴の席で、主人から来客へ送る物を「引出物」といい、結婚式などでは、風呂敷やさげ袋に包んで、客の手土産にすることが現代風俗でもあります。このような贈り物を、なぜ「引出物」というのかといいますと、昔は馬を庭に引き出して贈ったのが、何よりの贈り物であったからです。その後、馬具や武具などに替わり、さらに饗応の膳に供える菓子や肴の土産の変わっていったのです。
馬の引出物から発祥した土産物が、菓子や料理に移り変わり、これを「口取り」と呼ぶようになったのですが、馬を引き出すのに轡(くつわ)をとります。すなわち口を取るという縁起から、「口取り」の名が起こり、馬にかわる菓子ゆえに「口取菓子」となり、「口取肴」になったと伝えられています。
菓子は今でも多くの引出物に使われ、来客に出す一個の茶菓子すらを「お口」と呼ぶ習わしがあります。料理の口取りも初めは菓子に準じた物であり、菓子そのものに近い甘みを主にした物が用いられました。江戸中期以降に多く用いられた「口取肴」は、長崎卓袱料理にみる砂糖味の料理(白いんげんの甘煮、金団、錦玉子、カステラ蒲鉾、羊羹など)が幅を利かせていました。
これらは、見た目も美しく、食べて甘く、日持ちもして、在来の地味な塩味本意の日本料理にはみられない長所を持っていました。正に駿馬に匹敵する引出物であり、「口取肴」であったわけです。
ところが「口取肴」は、家庭で待つ婦女子には人気がありましたが、宴席にある男性たちにとって、酒の肴としてはなにか物足りません。酒席に甘味ばかりが顔を出したのでは興がさめます。けれども、膳組の中で形式化した口取りの地位を廃するわけにもいかず、そこで考案されたのが、「口取り」の代わりとして生まれた「口代り」です。
いまの宴席献立には申し合わせたように、「口取り」ならぬ「口代り」の名が出てきます。「口代り」は酒席に向く口取りで、酒の肴としてその席で食べる肴です。したがって、引出物から出発した「口取り」とは意義の異なったものとなってしまったのです。
こうして「口取り」は本膳料理につく土産物(菓子または料理の折詰)すなわち引出物となり、「口代り」は会席料理(宴席)の献立に含まれる酒の肴をいうようになりました。ただし、「口代り」を盛る器だけは、口取肴を盛る器をそのまま踏襲して、八寸や硯蓋を用いる場合が多く、あるいはそれらに準じて作られた口取り用の皿や塗り物に盛る習慣が残っています。
八寸というのは、杉板でこしらえた八寸四方の縁高の器で、茶会席ではこれが膳組の中で欠くことのできない形式と食作法を持った什器となります。そして、口取肴(今では口代りが多い)として、海のものや畑のものなどを取り分けて盛るのが普通です。
硯蓋は、その名の通り硯箱の蓋で、蒔絵などをほどこした立派な硯箱の蓋を、昔の茶人が座興として、口取りを盛る器に代用したことから流行をみたといいます。後世には八寸に習って、蒔絵の縁高が作られ、これが料理用の硯蓋として粋人の間で用いられるようになりました。また上方では、饅頭を盛る万寿盆や、広蓋などを口取りの器とするところがあります。
『重詰めおせち』
重詰めは組重ともいって、詰め方は、地方や家によってしきたりもあるでしょうが、江戸の慣習では、一の重は三つ肴を主にした祝い肴、二の重は口取肴、三の重は焼き物、甘露煮など海川の幸、与(四)の重は根菜類の煮染や白煮として詰め合わせます。けれども、今日では、色彩の美しい口取りを一の重にすることが多くなりました。
おせち料理の口取りは、結婚式の引出物の折詰めに用いる口取りとも共通したものがあります。これらの口取りは、長崎におこった卓袱料理における小菜の口取皿に盛られる品々で、文化文政の頃、江戸の料理人が学んで、東国へ持ち込んだ記録があります。長崎は外国との交流で、砂糖が早く入ったせいか、料理も当時としては甘いものが目立ち、きんとんや伊達巻きなどもその所産です。甘味口取りの魅力は大きく、たちまち江戸中に広まり、これを唯一のご馳走として、諸大名やその家人、または分限者の正月料理に加えられたのです。
おせち料理の口取りは、結婚式の引出物の折詰に用いる口取りと共通したものがあります。これらの口取りは、長崎におこった卓袱料理における小菜の口取皿に盛られる品々で、文化文政の頃、江戸の料理人が学んで、東国へ持ち込んだ記録があります。長崎は外国との交流で、砂糖が早く入ったせいか、料理も当時としては甘いものが目立ち、きんとんや伊達巻きなどもその所産です。甘味口取りの魅力は大きく、たちまち江戸市中に広まり、これを唯一のご馳走として、諸大名やその家人、分限者の正月料理に加えられたのです。
口取りの縁起としては、ゆで卵を黄身と白身に分けて裏漉し、それを合わせて蒸した錦玉子は、二色を錦に置き換え、財宝をあらわします。紅白は平安を意味して、蒲鉾や膾などがあります。きんとんは金団の文字が財宝につながり、いつも富裕でいられるようにという祈願が込められています。木目羹は樹木の成長をあらわし、伊達巻きは書巻を意味して、文化の発展を祈ることになります。
このように、おせち料理は古くからの伝統や慣例を踏襲するのが普通で、最近の和洋中とり混ぜたような新趣向のものは、正月のもてなし料理ではあっても、おせち料理とはいえないのです。
『膳組と献立の関係』
ここ数年来、料亭の日本料理なるものが、派手な世相に同調して、ファッション化しつつあります。それはそれでいいにしても、料理というものは、それぞれの国の、あるいは民族の伝統をになうもので、根無し草のようなものではありません。 ところが近頃の献立は、よくいえば自由、悪くいえば継ぎはぎだらけで、まことに頼りありません。そして在来の日本料理の面影はだんだん薄れつつあります。正餐献立の基本はどこにあるのでしょうか。
『膳組、献立、膳立の意味』
正餐の献立は、ただ料理品目の羅列ではなく、膳組の様式によって決まります。 日本料理の膳組は、現代行われている客膳様式だけでも数種類あり、儀式膳や宗教関係の古典的膳組までを入れると、まことに複雑で、難解なものが多くあります。
そこで、現代の膳組をわかりやすく区分すると、三つの形式に大別されます。すなわち、室町時代の貴族社会でおこり、全ての膳組の源になった「本膳料理」の流れと、江戸時代の武家や庶民生活の中から生まれた料理茶屋の「会席料理」、そして茶の湯に伴う食事として定型化した「懐石」などがそれであります。
その他、地方的なものではありますが、ある時代に外国料理の影響を受けた長崎の「卓袱料理」、宇治黄檗山万福寺に伝わる「普茶料理」、さらに卓袱料理の影響を受けたと思われる「皿鉢料理」などがあります。
正餐の場合、これらの膳組を念頭において、どの膳組で客をおもてなしするかということが、献立を考える上の第一段階となります。膳組を無視して、日本料理の正餐献立は成り立たないのです。膳組にしたがって献立の品目(料理)が決まり、料理を盛った器が、膳の上に組まれた状態を「膳立」が調ったといいます。
膳組、献立、膳立の三用語は、客膳を調える上からも、その意味をよく知っておかなければなりません。
『本膳料理』
外国ではテーブルを囲んで食事をするのが普通ですが、日本では一人分の料理を組み並べた膳を、めいめいに配するのが原則となっています。
その代表的なものが「本膳料理」です。座敷に座るという生活が、めいめいに配膳という食事形式を生んだ一因とも考えられますが、これは室町時代に始まり、江戸時代に一般化して、明治以降まで続きました。地方の旧家では、いまだ冠婚葬祭などの人寄せに用いるところもありますが、生活様式の変わった都会ではまったく廃れ、その膳具までが姿を消してしまいました。
また、ひとくちに本膳料理といっても、時代によって変遷があり、貴族社会で行われた饗宴の膳が、庶民の食事様式として普及するまでには、だんだんと実用性を帯び、略式化されました。私どもに伝えられた明治以降の本膳とは、一汁三菜の膳組を基本とした本膳に、吸い物膳としての脇膳を添える、二の膳形式が一般に行われ、三の膳以上は、古典の「饗の膳」に倣った式膳で、これは時代とともに廃れていきました。
『本膳の組み方』
一汁三菜による本膳の組み方は、膳の左手前が飯椀、右手前が汁碗(付汁、味噌汁)で、右向こうが坪(膾など)、左向こうが平(煮物)、中の木皿を中皿または中猪口といい、これには梅干しや香の物を入れるのが普通であり、古くは手塩皿でした。本膳膳組の第一の特徴は、飯が主体となり、これに付汁を添えることです。付汁は味噌汁で、飯に付ける汁という意味です。「おつけ」ともいい、女房ことばで「御御御付汁」と丁寧なことばになります。亭主に妻君が沿うように、飯に汁が付くことは、日本料理における確固たる体制なのです。
膳具というものをよく観察すると、飯椀と汁碗は、その蓋が椀の内側へ落ちるように作られていますが、壺や平椀などの菜器は、飯椀や汁碗より格が低いと見なされているか、その蓋は椀の外側にかぶせる着せ蓋で、さらに一目で区別できるように、椀の外側にぐるりと一本の筋目が通っています。
以上の本膳膳組は、前に述べましたように、貴族社会の饗応に用いられた「式の膳」や「饗の膳」に対して、江戸時代になって庶民の間に普及した「ふくさ料理」といわれる膳組です。ふくさ料理は、袱紗、覆紗などと書かれますが、いかめしくない、柔らかなというような意味をもった膳組だといわれています。しかし、室町時代の食生活を描いた「酒飯論」によりますと、現代の膳組に近い二の膳付きの本膳で饗応をうけている図があり、「ふくさ料理」が必ずしも江戸時代に起こったものという説を否定する材料にもなっています。
『式三献と饗の膳』
将軍家のなどの饗膳をみますと、特別な献立による膳組となり、儀式第一として、まず、式の膳から始まります。式の膳は、式三献にともなう盃事の膳で、加冠、元服、祝言、昇階など諸祝儀にあたって行う、盃取りかわしの儀式で、現代にみる婚礼の三三九度の盃は、その名残であるといわれています。
「式三献」が終わりますと席を変えて酒宴になります。湯づけ飯の本膳が出ることもあり、二の膳、三の膳から七の膳までも供されるような大饗宴もあったようです。その「饗の膳」にも「七五三本膳」、「五五三本膳」、「五三二本膳」などややこしくて、すべて儀式ということで縛られていたようです。
ちなみに、二の膳以下は、かまぼこ、たこ、えび、塩引き、するめ、うに、くらげ、からすみ、さざえ、鴫の羽盛りなど、酒の肴にむくものが多かったようです。けれども、本膳(一の膳)をみる限り、飯の杉盛(高盛り)を左手前、汁を右手前という位置づけは、この時代から定められたようです。
しかし、食事と酒はあざなえる縄のようなもので、どちらかが表に顔を出したがるものです。饗の膳に於いても、宴なかばには「中酒膳」が出て、酒盛りが一層賑やかになります。ただし、中酒膳には、清汁一椀が配られるしきたりがあり、「吸い物膳」とも呼ばれます。
後世では吸い物膳だけの略式で客を招き、酒宴を催す風流人もいました。ふくさ料理の本膳では、二の膳を吸い物膳に見立てて、二の膳の吸い物が出るまでは盃事にならなかったようです。この後で述べますが、「懐石」で飯と汁を一口いただたあとで、酒盛りになる約束事は、本膳の心を汲んだもので、酒を主体とする「会席料理」ですら、
本膳のしきたりの一部を尊重して、献立の一番最初に吸い物椀を持ち出しています。
『飯と汁が主体の「懐石」膳組』
懐石も会席料理も、ともに現代行われている日本料理の食膳様式です。「かいせき」ということばが同音のため、まぎらわしく、膳組の内容も、その区別に迷う方も多いかもしれません。ひと口にいって、懐石とは、定型の膳組であり、会席料理は不定型の膳組といえます。
すなわち、懐石は茶の湯にともなう食事であり、定められた形式の膳具を用いて、茶家の作法にしたがって食事をするという、約束事をもった膳組です。懐石の膳組は、本膳の基本と同じく、飯椀と汁碗を主体とします。もちろん飯椀は向かって左手前、汁碗は右手前となります。これに向付がついて、膳の上の食器は、始めから終わりまで、この三点だけのセットを用い、後から持ち出される煮物椀や焼き物は、膳の外に置き、あるいは取り回しとなります。
懐石の膳は、本膳のように足がついていません。懐石膳または折敷と呼び、狭い茶室でも扱いよくできています。椀は、飯椀がやや大きく、汁碗と一対になり、蓋がついています。椀と蓋が重なって入れ子になるのは、四つ椀や応量器の影響だと思います。
向付は折敷の向こうに置く食器で、陶磁器製の風雅なものが選ばれます。これに盛る料理は、主に刺身、酢の物、和え物などですが、それだけの用途ではなく、後から持ち出される、一緒盛りの焼き物などを受ける「取り皿」として活用されます。次ぎに煮物椀と称する大ぶりの椀が持ち出されますが、これは本膳の平椀(煮物)と二の膳における吸い物椀(清汁)との合併と考えられるもので、椀種の量を多く盛って、主に清汁を張ります。
焼き物は、陶器などの鉢に人数分を一緒盛りにして、取り箸を添えます。正客から取り回し、向付の器を取り皿にします。
懐石は一汁三菜を基本にするといわれますが、向付、煮物椀、焼き物が三菜にあたります。それ以外の料理は献立外となりますので、
献立以外にすすめる肴という意味から「進め肴」、または「強肴」といいます。進め肴は酒の肴として珍味や酢の物を進めるもよし、飯の菜を補充する意味から、炊き合わせなどを出す場合もあります。
一通りの料理を出し終えて、酒器や飯器なども客に預け、亭主が水屋で一息つく時間を「段切り」と呼んでいます。
段切りの後、小吸い物が出されます。箸洗いともいうように、箸の先がぬれる程度につゆを張ります。さっぱりとした薄味のつゆを用い、針生姜、かき梅などを点景として、さりげない風情を装います。
一般の宴席に献酬があるように、懐石の席でも酒盃のやりとりが行われます。
亭主は八寸と銚子(燗鍋)を持ち出し、八寸には酒の肴(口取り、口代りなど)を己が相伴の分まで数に入れて盛ります。八寸の肴は小吸い物の蓋を返してつけることになり、ここで「千鳥の盃」と称する献酬が行われます。この段切り以後の、小吸い物が本膳の中酒膳に当たるもので、懐石の席としては、初めて酒を主題にした宴になります。頃をみて上客から湯の所望があると、脇引(湯盆)に湯桶と湯の子すくい、香の物をのせて持ち出します。客はこれを取り回し、湯づけ飯を食べ、作法にしたがって食器を拭い、箸を落とし、形をととのえたところで、亭主は膳を下げ、懐石は終わります。
このように懐石とは、特定の客人を招いて、作法にしたがい、茶心に満足を与える食膳です。それなのに「懐石」の文字の安易な乱用により、日本料理を迷路に追い込んでしまったのが昨今の現状なのです。
『酒に始まる会席料理』
会席料理は人の集まる席に出される料理という意味で、不特定多数の客を対象にしたものです。江戸の爛熟時代から盛んになった料理茶屋の料理が、そのまま尾を曳くもので、板前と呼ぶ専門職の腕にゆだねられてきた料理が、すなわち会席料理なのです。
したがって、料理茶屋で出す会席料理には、本膳風の膳具もあり、懐石風、卓袱風などいろいろあり、どれが正式であるという膳組はありません。なぜならば、不特定多数の客を相手にする場合、古いしきたりの膳組や、定められた作法を客に強いるわけにはいかないからです。所詮、楽しく酒を飲ませ、美味しい料理を売るということが建前となり、それぞれ店の営業方針を生かした自由な膳組に置き換えられてきたのです。
会席料理が酒を主にした膳組であるということは、献立順位の最初にあるべき飯と汁を、最後に置き換えてしまったことにあります。これは会席料理の献立を理解するための重要なポイントでもあります。料理茶屋では酒をたくさん売らねばならないので、膳立の初めに飯や汁を出したのでは、酒客や宴席の興をそぐことになります。ですから、会席料理の献立をみますと、とりあえず、酒に向く肴を少しばかりつけることから始まります。
これを先付け、少しつけるので小付けともいい、通し、突き出しなどの名があります。また、酒の肴を多めにつける場合は前菜、酒菜などの名称を用いますが、これは近代になって西洋料理のオードブルや中国料理の菜単の影響とも考えられます。
会席料理の膳には、普通、手もと箸の上に酒牌が伏せてあります。その箸をとって食事をするためには、まず盃を取らねばなりません。盃を手にしたとたんに、宴席では「おひとついかがですか」と脇から接待役が酌をします。深酒のために席が乱れることも多く、会席料理はこのような環境の中で、十七世紀の頃から育てられ、現代に及んでますます盛んになりつつあります。
客は盃を受けてから料理に箸をつけるわけで、献立の順位も、まったく酒を主にした組み方をしており、初めに吸い物(清汁)と造り身(刺身)が出ます。続いて焼き物、煮物、酢の物というような順を踏んで、酒も料理も終わったあとに、飯と味噌汁が出ます。この場合の味噌汁を献立の上では「止め椀」と呼び、これは献立の最後、すなわち止めの料理をあらわしています。
ここで面白いのはただ一つ、本膳の作法に義理立てしていることです。本膳では吸い物膳(二の膳)が配されてから酒盃になることは、最初に述べましたが、酒から始まる会席料理の膳、まず、吸い物を持ち出すことは、古い献立のしきたりを、まったく無視した物ではないことを物語っています。
『精進料理』
本来は、仏教の思想を持った料理という意味で、仏教が禁じていることに従った食事をさします。動物食品だけでなく、五葷(ごくん)といわれる、ニンニク、ネギ、ラッキョウなどの匂いの強い野菜類も禁じられています。修行中の僧侶が日常の食としているもの、またその食べ方を称して精進料理といったもので、狭義には、動物性食品の入らない料理をいいます。
今日、精進料理といわれている料理は、一般精進料理といえるものです。というのは、もともと精進料理とは、精を進めると書くように、修行のために、僧侶が日常的に食べる料理をいいます。そこには厳しい食物儀礼が存在し、作る側にも、食べる側にも、修行としての心のあり方が要求されました。
けれども、現在では思想性とはほとんど関係なく、産籠者から観光客に至るまで、寺院や店で商売として出される料理や、野菜だけのベジタリアン料理など、すべてを含めて、動物性食品を使わないものを、精進料理と呼んでいるのが実状です。
精進料理は、日本料理の体系の中で、一つの独立したジャンルを形成しています。本膳料理、茶懐石、会席料理などの呼称が、料理の形態を示しているのに対して、食事の様式ではなく、料理の素材内容を示しているという点で大きな特徴を持っていて、他の料理に広く影響を与えてきました。
そういう意味では、仏教国日本において、最も古い時代から、ある種の様式のもとに存在していたと考えられます。現在のに本料理のルーツをたどっていくと、すべてが精進料理に行き着くといっても過言ではないでしょう。
寺院だけに存在した精進料理が、一般社会の中で一つの料理様式として確立したのは、鎌倉から室町時代にかけてで、そこには禅宗が大きく関わってきます。永平寺流、大徳寺流、やや時代が下がって普茶料理など、様々な流派の料理が形成されて、それぞれに発展し、浸透していきました。
儀式料理として、実質的な美味しさを追求する方向になかった本膳料理に対して、精進料理の中には、質素な中にも、温かいものは温かく、できたての状態で食べるという考え方があったようです。限られた食材をいかに有効に使うかという点や、細かい料理技術という点、さらには茶会席の元になった精神性という点においても、日本料理全体に与えた影響は大きいものです。
『普茶料理』
字面だけでは、どんな料理家わからない料理ですが、普茶は中国風の精進料理です。江戸中期に中国の隠元禅師が来日して、黄檗宗という禅宗の一派を伝え、宇治の黄檗山萬福寺を大本山としました。この寺では、茶礼といって法事が終わったあとに、近在近郷の者が供えた仏供を使い、料理を作りご馳走をする習慣があります。このときに出される料理が、普く(あまねく)茶をご馳走することから、普茶料理といいます。
隠元禅師は中国人で、道元禅師の伝えた日本向けの精進とは異なり、油や片栗粉でとろみをつけた、中国風の料理を好みました。この中国風の独特の精進料理が、普茶卓袱といわれるように、一つの大きなテーブルを皆で囲んで食べますので、配膳式の日本料理に比べて非常にうち解けた雰囲気にうつったのか大変に好評で、江戸時代末にとても流行しました。 卓袱台(ちゃぶだい)はこの名残です。
普茶料理の献立は、「笋羹(じゅんかん)…春は筍、秋は松茸を主役に、里芋、人参、茄子、蓮根、蕗などの野菜を併用した煮物。 「麻腐(まふ)」…胡麻豆腐、山葵に味醂醤油を加えて添える。
「油磁(ゆじ)」…下味を漬けた野菜を味付けした衣で揚げた精進物。
「雲片(うんぺん)」…その日に用いた野菜の残り屑を細かく刻み、炒めて調味しとろみをつけたもの。
「羹杯(かんぱい)」…ひたしもの。
「えん(菜)つぁい」…漬け物。
「飯子(はんつう)」…ご飯。
この他、味噌汁や季節の和え物などもあります。
現在では、特別な老僧を除いて、肉食を問わず、必ずしも精進の素材にこだわりませんが、純然たる精進料理を「上句(しゃんこん)」といいます。 この背景には、精進するという大切な意味合いがあり、食べる意味があります。
『多彩な献立』
献立とは、式三献の場合、一献ごとに三回膳(三方)をかえ、料理(肴)が変わるので、その名が起こったといわれています。本膳や懐石では、その膳組で述べました通り、膳具が定められたいますので、献立名の乱用はありませんが、初心者が戸惑うのは、会席料理の献立です。
もう一つ目立つは、懐石と会席料理を混同して、懐石の献立名が、会席料理の献立に流用されていることです。それは必ずしも不都合ということではありませんが、ものによっては意味のとれない献立名となります。
一例をあげると、会席料理の献立に「強肴」が出てきたりします。
強肴とは懐石献立にみる特殊な用語で、一汁三菜以外に供する献立外の進め肴ですので、飲食献立の中に羅列して、お目にかける献立名ではありません。
ここで最も基本的会席料理の膳立といえば、先付け、吸い物、刺身、焼き物、煮物、揚げ物、酢の物、これに口代りなどが加わって、酒を程々に楽しんで、赤出汁と白飯(茶漬けでもいい)、季節の香の物があればということになるでしょう。
『おせちは国家発展の祝い』
おせちの重詰めは、すきまのないように、重箱の隅までぎっしり詰めるしきたりがあります。神様への供え物は、たっぷり仰山詰めるのが本来で、単なる盛りつけではありません。神仏の祭りには、まず飲食を供えることを教えられているように、それも豊かにたっぷり供えなければなりません。それが我が身、我が家に対する福の見返りでもあるからです。
昔の祭りの膳には、飯を高盛にして供するならわしがありました。今でも地方の一部には、この遺風を継承しているところが多くあります。また古式にのっとた神社の供饌を見ましても、飯に限らず、すべての食品が高盛です。高く盛ることによって、その豊かさ、すなわち神仏に対してのもてなしぶりを披露しているのです。
飽食の時代とまでいわれる現代のように、食べ物が有り余るときには、飢えの苦しさはわかりませんが、飢饉の恐怖は常にその背景にあったものと考えられます。そこで、食べ物をたくさん貯蔵している者は安堵感があり、少ない者は心がいらだち、おびえる生活を送ることになります。ここに、豊稔、収蔵を祈る年迎えの意義があり、その神迎えのご馳走がおせち料理なのです。
正月の祝いでは、屠蘇を飲み、雑煮を祝い、おせち料理に箸をつけることが、一般のならわしになっています。
雑煮は餅を主体にした羹で、もとは臓腑を保護するので、保臓、それから烹雑、雑煮へと推移したという説もあります。また、九州で雑煮を「なおらい煮」と呼ぶところが多いのは、年越しの夜に神迎えの直会として、供饌を下げて雑煮を祝ったことによるといいます。直会とは、神事にたずさわった人々が、神に供えた飲食物を分かち食べる儀式のことで、雑煮もおせちもお正月様の直会なのです。
おせち料理は、正月という厳冬(旧暦)の季節を背景にしたもので、冬枯れの畑には野菜類も乏しく、保存のきく根菜や乾物などが主材料になっています。また、三が日は水仕事を控えるというような風習もあり、雑煮以外の煮炊きものは、保存のきく作り置きの料理というのがたてまえです。口取りのような砂糖料理は、おのずと日持ちがよく、
他に酢の物、甘煮、煮染めというような濃い味の料理法で、歳末に作ったものでも、三が日は保存がきくように工夫されました。これが江戸料理独特の料理法となり、おせち料理は江戸料理の発展過程の中におかれたのです。
そのため京都には、伝承のおせち料理はありません。
おせち料理には、文化(昆布巻き、伊達巻きなどの万巻の書物の意)、経済(きんとん、金柑など財宝の意)、労働(黒豆、ゴボウなど)、平安(蒲鉾、膾)など、国家や社会の発展に必要な国民の祈りが込められています。
yakata@city.nerima.tokyo.jp
日本料理の歴史と
成り立ちへ 「やかたの厨房から」
source
http://www5d.biglobe.ne.jp/~yakatada/kataribe.html
INDEX
http://www5d.biglobe.ne.jp/~yakatada/index.htm
*****************************
BACK TO
Vegetarian Temple Food
(shoojin ryoori 精進料理)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1/24/2009
Food and Religion
By
Gabi Greve
at
1/24/2009
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment